山本 薫さん①北海道の大地から青森へ

山本 薫さん

陶芸家。ベンセ湿原ボランティアガイド。つがる縄文遺跡案内人(遺跡ボランティアガイド)。新聞配達員。

北海道出身。
短期大学卒業後、とあることがきっかけで青森県藤崎町へ。
青森県弘前市で陶芸を学んだ後、山口県萩市で12年間研鑽を積む。
その後青森県に戻り、ご主人と窯元を創業。
現在は陶芸教室講師やボランティアガイドとして活躍している。


第二弾は山本薫さん。陶芸家として創作活動を続ける傍ら、市内のボランティアガイドとしても活動しています。エネルギッシュな山本さんの魅力に惹かれ、今回インタビューをお願いしました。

21歳の春。北海道を発ち、海を渡る

Q.ずっとご経歴が気になっていて。青森に来たきっかけは何だったのですか?

私、会社員に一回もなったことないの。
21歳の時、短期大学を卒業して、5月に北海道の家を出てきたの。とにかく焼き物をやりたいと思って。会社員になるにしても、一回自分で出かけて、ほかを見てからやろうと思ったのね。
家を出るときに、父にね「部屋ちゃんと嫁に行くように片付けていけ。」って言われたの。それで私「え!私すごいことしようとしてるのかな。」「そんなに簡単なことじゃないんだな。」っ思った。けれどとりあえず「カニ族*」のリュック背負って出てきた。
はじめは焼き物やってるところを見学して帰って、それでまた何かやろうって思うような気持ちだった。でも北海道から海を渡るときに「ああ、北海道を出るんだ。」「大変なことなんだ。」って何となくポロって悲しくなったの。

*カニ族…今でいうバックパッカー。横長のリュックサックを背負って旅をする人々を指した。カニ族の由来は、改札を通るときやすれ違うときに横向きで歩いたことから。

船の中で運命の出会い

北海道からの船の中で、札幌の祝言に行った帰りの藤崎(青森県藤崎町、弘前市の隣町)のおじいちゃんに会った。祝言の帰りだから、かなりお酒も飲んで、ほろ酔いでね。
それで私一人なもんだから、「どこ行くの」って聞いてきて。
「東京まで。焼き物やりたいと思って行くんです。」って言ったら、「そんな遠くまで行かなくても、津軽にも焼き物あるから、俺についてこい。」って言われたから、それについていったの。
行ってみたら、川部駅(JR五能線、奥羽本線の駅)に着いて、今も何もないけどその当時もっと何もないところで、大丈夫かなと思った。そうしたらおじいちゃんの息子が迎えに来てくれて。息子は「誰か女の子いるわ。だけど祝言に行ったじさまが連れてきたんだから親戚の子だろう」と思うじゃない、一緒にくっついて来るんだから。それから車に乗せて家まで連れて行ってくれた。萱屋根の家だったの。
寝て、次の朝起きたら、そこはりんご園。5月で人工交配の時期だった。すごく忙しい時期だったから、私も次の日から梯子に上って交配したの。「まいね(ダメ)」っていう言葉も分からなかったから、「そこ、まいね(ダメだ)」って言われても「はいはい」って交配していた(笑)
「この人だれなんだ」ってみんな思っているわけね。私は焼き物やりたくて来たけど、実は「俺についてこい」って言ったおじいちゃんは津軽のどこで焼き物をやっているかも知らなかった。だからおじいちゃんは私が藤崎に来てから焼き物の窯に電話して「まあ、好きなら来ればいいよ」ってなったの。

弘前の窯元へ

弘前の焼き物の窯はお土産品をつくっているところだったのね。私にとっては初めての、自分の希望していた仕事に就けるということがものすごく嬉しくて。その当時、すごく給料安い会社で一か月19,800円だったの。当時の弘前で一番安いところだったらしいんだけどね。それで3,000円の下宿代払ってすぐ近くに部屋借りていた。
毎週日曜日の休みになると、藤崎のりんご園へ自転車で行って、りんごの仕事を手伝った。帰りには食料いっぱいもらって。藤崎の家と繋がっていたから生きていられたところがあった。

「藤崎が青森の実家」

今でも「私は藤崎が青森の実家だ」と言うの。おじいちゃん亡くなっちゃって、息子も亡くなったけど、今は孫が後継いでりんご園やってるの。私が来たときその孫はまだおしめしてたの。萱屋根のお家でギャーギャー泣いてた子がね。ご縁って不思議だよね。そこからずーっと繋がってるの。今は一年に何回も行かないけど、おじいちゃんおばあちゃんの命日には必ず行くのね。「よく来るね」って言われるくらい。

青森県内のりんご園

そして、藤崎は私が初めて果樹農家に触れた場所でもあったの。私の知ってる農家っていうのは、ビートを作っていたり、小豆を作っていたり、野菜を作っていたり、そういうの。北海道にあるのはすごく広い土地をトラクターで耕すような畑でしょ。そういう畑しか知らなかったんだけど、果樹農家に来たら、「あ!果樹農家ってすごく近代的なんだな」っていう印象を持った。「わあ、楽しそうだな」って思ったりね、そういう風に感じたの。私のイメージの農家じゃないなって。協同組合があって、消毒する薬もみんなで共同で畑ぐるって回ってかけるみたいな、そんな感じのやり方してて。「なんか、この人たちの生き方っていいな」みたいな。そんな印象を果樹農家に持っているわけね。

私がお世話になったところは、「受け入れる」家だった。何の抵抗もなくね。だから今でも青森の実家だって言って繋がっていられるわけね。
そういう人に巡り合うっていうのもね、すごく幸せなことだよね。巡り合うたびに、「ああ、私、幸せな人だなあ」って。いつも何かがあればそういう風に思ってきたの。だから「どうしようこれ」って悲観的にあんまりならないんだね。本当は苦しい状況なんだけど、「いいや、なんとかなるや。これ以上悪くならないよ」みたいなそんな感じで今まで生きてきた。
周りからは「好きなことやってていいね」って言われる。お金持ちにはなれなかったけど、でもこういう生き方もひとつありだよなって、自分でそういう風に思ってる、今。

Q.それは当時も思っていたんですか?

うん。だって当時も楽しくなかったらやめてるでしょ。北海道から友達が来たときは、近所のお店のおばちゃんからツケでご飯買ってきて友達にご飯食べさせたり、そういうこともしてたけど、まあ若かったしなんとかなるよっていう感覚。もうそこからいい加減だったんだね。もうちょっと建設的な生き方をしてればもっとましな生き方できたんだろうけど(笑)

焼き物の町、萩へ

弘前の窯に3年間いて、そこから山口県に行くことになった。
萩へ行ったら行ったで面白かった。その当時は萩だけで窯が100以上あったかな。今だとその3分の1くらいしかないんだけど、当時は色々な所から修行に来てる若い人との繋がりもあったし、人間国宝ご夫妻が散歩してるのも見られる。やっぱり旅行しててちょっとだけ行くっていうのとは違って、住むっていうのはそういうことなんだよね。土地のにおいが分かるっていうか。周り近所のおばさんたちと一緒に、ちらし寿司の作り方を習ったり、そういうこともすごく楽しかった。だから、どこへ行ってもやっていけるなって自分で思った。

「本当に分かる」

萩では、分家してこれから登り窯をつくるってところに行って、何も作ること分からなくても窯つくるところ見て、一緒にやったわけ。弘前で結婚した主人と2人、そこに12年いたの。
その時ほんとにね「わけわからないってこういうことなんだな」って思った。窯の職人さんってのはね、何にも言わないんだ。「これ、足で踏んで」とか「このレンガこっち持ってきて」とか言葉少なに指図するんだけど、それが全然分からないの。「なんだろうねこれ」って感じで。それが順序をだんだんやっていくに「ああ、こういうことだったんだ」っていうのが分かるから、「本当に分かる」よね。だからすごく良いところに行ったなと思った。うん、面白かった、そこも。12年ってあっという間だったよ。本当に。

弘前で創業

Q.萩で修業をされてからは…?

主人の父が亡くなったんで青森に帰ってきて、弘前の高杉で窯をつくったの。その窯は萩で作り方を見てきたから、自分たちでつくれた。
窯つくってからもう40年近くなるよ。よく潰れないで今まで来たもんだね。今はコロナで陶器市も教室も無くなっちゃって大変なんだけど、まだこうやっているよね。お金なくても生きられるもんだね。贅沢しようとかあんまり思わないし、「なかったらないでいいや」って思ってる。ギリギリなんだけど、なんか、生きてるんだよね。

(筆者)「私、ここに住んでいる人を見ていて『豊かな生活してるな』って思うんです」

うんうん、お金ないけど、気分的には豊かだよ。うん、なんだろうね…。私の両親がそういう人だったんだ。北海道に生まれた人は気持ちが大きいんだよ。広いところで育つからね。山の形も違うし、海渡ってこっちへ来たら全然違うもんね。そういうのは感じるよね。

(筆者)「すごいな…ここで窯をつくって40年ですか。」

20歳で家を出てから今72歳。ずーっと焼き物に関係してきたんだよ、すごいよね。

学生時代の記憶

Q.焼き物にはまるきっかけはあったんですか?

うちのおばがお茶をやっていた。おばがお茶行くとき一緒に連れられて行ったりしてて、そこで焼き物見たのが最初かもしれない。中学生の頃から焼き物好きだったの。好きだったけど、別にのめりこみたい気持ちはなかった。でも就職する前に「一回体験してみないと心残りだな」みたいな、そんな簡単なことで始まったんだけど、そのままなの(笑)

(筆者)「お父さんが言っていた『嫁に行く準備をして行け』っていうのは、合っていたかもしれないですね。」

合ってたよね。その時ちゃんと家に帰っていれば別の道があったんだろうけどね。でもね私、計算する生活とか、きちっと書類を作るとか、そういうの無理だなと思うね。
ただ、いとこたちは栄養士になっていたりするんだ。だから私もひょっとしたらそっちに引っ張られる人だったのかなと思う。今になると、食べることとか作ることが好きだから、そっち行ってたらそっちでそれなりにやれていたのかなとも思う。でもやっぱり必要のないこと、興味ないことは覚えないよね。
例えばなにか作っても、今回失敗したから次こうしようって思う。それが楽しいからやるわけでしょ。ボランティアガイドも、全てがそう。

縄文遺跡案内所にて

「私みたいな人がいてもいいんじゃないかなって」

楽しいことといったら、一つ一つ自分の知っているものに、新聞記事やテレビを見て「あ!これだわ」っていう小さい積み重ねをしていくことで、離れていたものがピッと合うのね。その楽しさを思ったら、高級レストランでディナーを食べなきゃとか、そういうの全然思わないの。だから、そういう人もいるし、私みたいな人がいてもいいんじゃないかなって。

(筆者)「良いものを得たり体験するには、相応のお金を払わなきゃいけないと思っていたんです。でも移住してから、津軽にはお金に換算できない美しい景色がたくさんあるなって。」

そうだよね。人の手で置くんじゃなくて、元々あるものなんだからね。長い時間かからないとそうはならない景色だよね。

山本さんの作品

次回はベンセ湿原ツアーと縄文遺跡、二つのボランティアガイドのお話です。

関連リンク
ベンセ湿原(つがる市観光物産協会)
つがる縄文遺跡案内人(つがるJOMONポータルサイト)

つがるさこいへ-つがる市移住支援

竹浪酒造店 インタビュー

つがるさこいへ-つがる市移住支援

山本薫さん インタビュー

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