一戸 広臣 さん(津軽亀ヶ岡焼 しきろ庵)
陶芸家
青森県つがる市出身
岐阜、京都で修業を積んだ後、つがる市亀ヶ岡遺跡の近くに「しきろ庵」を開業
2022年現在、縄文柄の焼物や遮光器土偶(しゃこちゃん)の置物を製造販売している
第3弾はしきろ庵店主の一戸広臣(ひろおみ)さん。つがる市で生まれ育ち、日本各地で修業されたのち、このつがる市亀ヶ岡で陶芸家としてご活躍されています。今回はつがる市が生んだアーティストの人生にせまっていきたいと思います。
インタビューを実施したのは地域おこし協力隊の上東(うえひがし)と宮田。上東は移住して初めての冬、雪に埋もれて身動きが取れなくなったところを、通りかかった一戸さんに助けてもらったという邂逅を果たしています。そんな運命を感じる一戸さんへの深堀インタビューです。
岐阜で焼物に出会う
Q.一番最初は京都で修業されたんですか?
【一戸】いや、最初はね、岐阜県。土岐市、瑞浪(みずなみ)、多治見って言って名古屋から日本海側の糸魚川まで出るまでの中央線(中央構造線)って走ってるじゃない?
あそこの途中の美濃焼の産地が一番最初(の修業)。
高校は五所川原工業高校っていう高校で、でも最初から工業なんてやるつもりも無いし、たまたま入ったのは入ったけど将来そんな工業で飯食おうなんて腹はハナからなくて、それで大学を目指そうと思ってた。それで朝日新聞の新聞配達する代わりに予備校に通わせてくれる奨学制度を使ってた。
2年浪人したんだけど、大学受けて結局は明治大学の夜間に入ったの。そしたらたまたまアルバイトニュースっていうバイトの情報誌で、岐阜の大量生産の工場の雑用係を募集してて。
【宮田】それは長期休みとかでということですか?
【一戸】別に大学で勉強する気もなかったから中退。
【上東】えっ、辞めちゃったんですか?
【一戸】そう辞めた。それで美濃に行って、大学の若い連中が泊まりこみできる宿泊施設があるのよ。そこに東京の学生たちが男女問わず集まってくるのよ。夜になったらみんなで酒飲んでね。でも「ろくろ挽けるわけでもないし、こんなことしててもなあ」て思ってたときに、夜に地元の青年団が公民館で焼物教室をやってて、その時に初めてろくろを挽いた。
【上東】それがきっかけなんですか?
【一戸】そう。それでハマっちゃった。
【宮田】工業高校に行ってた時から焼物に興味があったということではなくてですか?
【一戸】全くありません。
【宮田】じゃあ、大学に行ってた時は将来何しようと考えていたんですか?
【一戸】将来はね、サラリーマン以外の自営する仕事をしたいと思ってた。
【宮田】そうなんですか!? そこから岐阜で焼物にハマったんですね。
【一戸】そうそう。でも当時は美大とか出た連中もバイトで来たりしてたから、ろくろもやったことないって言ってもやっぱり器用なのよ。
それで指導してた青年団の人が俺のこと見てて「一戸さんは基本的にこういうタイプの仕事は向いてないね」って言われた。俺もこんな仕事やるつもりハナから無いから、「そうだよね~」って感じでショックもなんもなかった。だけど段々ハマっていったんだよ。
備前を目指して京都へ
Q.岐阜には何年いらっしゃったんですか?
【一戸】半年間。その間に焼物にハマって、東京にアパートもあったんだけど気持ちがこっちの世界に移っちゃってるもんだから、それで一旦岐阜は出たけども、備前焼がやりたくて備前(岡山県)を目指したの。だけど備前には知り合いはいないし。でも当時立命館大学に行っている友人の友人がいて転がり込んだの。そこで居候して備前を目指そうって感じ。それで京都まで行ったの。でも金は無くなるしさ、いくら友達の友達っつったってさ、そんな長くいるわけにもいかないでしょう?それでそういえば京都にも焼物あるなって思って、五条坂近辺をぶらついて、住み込みの、やっぱり工場だよね。そんなところに入りこんでって感じ。今考えてもいろんなことあったね。
【宮田】京都に行ったのはおいくつぐらい…?
【一戸】25才のときにはこっち(青森)に帰ってきてたから、23ぐらいのとき。それまでは日本各地をふらついていましたよ。北海道も行ったし。
だって自分の人生これからどないしていこかって話だから。いろいろ悩むわけよ。そんな時に人はね、旅に出るのよ。
例えばだけど鳥取とか山陰の方とかってホントさみしいの。そんで夜行乗るでしょ、泊まるあてないでしょ、地方の止まった駅で野宿が基本だから。そんでね遠くに明かりが見えるの。そんで「向こうにあったかい家族のいる家があるんだろうな、俺はこれからどないなるんやろな」て考えるわけ。
だから「旅行」って旅を浪費しながら移動するってことで、「旅」って金も無くてあてもないもんだから、旅行と旅は全然違うと俺は思う。そういう意味では「旅」をしたね。
【宮田】必要な3年間だったんですね。
【一戸】そうだね。そこでいろんな人と知り合ったからね。京都ってそういう意味ではすごいところよ。あんだけ保守的で、環境的にはすごいいい所。
ここで奥様の瑆子(セイコ)さんが帰宅し、お二人からお話を聞くことに。
青森へ帰郷 自分の窯を持つ
Q.京都から帰ってくるきっかけは何だったんですか?
【一戸】寿司屋の大将と一緒で、自分の店を持ちたい、自分の窯を持ちたいって思って。で、一応長男だから親の面倒を見たいって思いが一丁前にあるので、やっぱこっち帰ってこよって思った。
【上東】ちなみに京都って何焼きになるんでしょうか?
【一戸】一番最初に行ったのは京焼。でもその先生とはけんかして出てきた。
【上東】なんでけんかしたんですか?
【瑆子】私が説明しますね。けんかした理由は簡単、京都の人はちゃんと綺麗好き。だから順序立てて仕事しない、いい加減なこの人がいちいち気になるのよ。
【一戸】だけどねそれはね、高校出たてのガキならいいけど、こっちもそれなりに場数こなしてるんだって。
【瑆子】茶々いれて悪いけど、一緒に暮らしてみるとわかる。どんだけちゃんとしてないかって。私でもキレるんだから、ましてや他人だったらしょうがない。
【上東】なるほど(笑)。まあ京都人と合わなかったということですね。
【一戸】そうそう。
【宮田】2、3年でノウハウは学び帰ってきたんですね。
【一戸】あのねこの世界って何年修業しても、技術は身につくけどセンスがなければこれで飯食うことは出来ない。だから極端な話だけど、修業全くない人でも作るもののセンスがよければいくら高くても買い手はいる。
【上東】結局何年やったかじゃないということなんですね。
【一戸】そうだね。とにかく結果論として買ってもらえるかどうかだから。安くすれば売れるけど、結局はセンスだよね。
今でこそ俺も何とか食えてるけど、来た当初売れるかどうかなんて保証は無いわけじゃない?
時々ね、作品を買ってもないのに技術的な所だけ聞いてくる人がいるんだけど、「それってどうなの?」って思うんだよね。
例えばうまいラーメン屋でラーメン食べずに「ここのお店が美味しいって聞くから来ました、仕入先を教えてください」ていってるようなものだよね。誰が教えるかって話(笑)。
一度自分で食べて本当に美味しいって感じてから「すいません。もしよろしければどこで仕入れているか教えていただけないでしょうか」って聞くのが筋っていうもんじゃないかと思うよね。
次回は後編、青森に帰ってきてから、そしてしゃこちゃんとの出会いのお話です。
関連リンク
しきろ庵 所在地
山本薫さんインタビュー
しきろ庵 一戸広臣さんインタビュー