一戸 広臣 さん(津軽亀ヶ岡焼 しきろ庵)
陶芸家
青森県つがる市出身
岐阜、京都で修業を積んだ後、つがる市亀ヶ岡遺跡の近くに「津軽亀ヶ岡焼 しきろ庵」を開業
2022年現在、縄文柄の焼物や遮光器土偶(しゃこちゃん)の置物を製造販売している
一戸さんインタビュー後編です!
前編はこちらから
今のスタイルを確立するまで
Q.こっちに来てから今のスタイルを確立するまで紆余曲折あったんですか?
【一戸】もちろん。最初はこっちも半信半疑でやってるわけだし、いつ潰れるかもわからないしさ、金だってかけられないし、窯と最低限のものだけで始めた。京都で修業してた時から絵も描けたので、それこそ薔薇の絵を描いたりしてましたよ。
でも、何人かに言われたんだよ。「亀ヶ岡焼と、このタンポポの絵って、なにが関係あんの」って。でもそれからぼんやりと形が出来てきて。20年するとある程度形が出来てきて、今ちょうど45年。
【上東】やっと完全に出来上がったということですね。
【一戸】そうそう。
【宮田】今のこの紋様になるために大きな変わるきっかけがあったんですか?
【一戸】やっぱりモデルは亀ヶ岡の縄文で、縄文土器の雲型。いわゆる雲形紋ね。とにかく亀ヶ岡って看板に名前付けちゃってるから、それに乗っかる形でやった。
【宮田】名前が先なんですね、驚きです。
【一戸】これもね、さっきのセンス論と同じなんだけど。こっちに帰ってきた時に「ここで京焼なんてやってもしゃあないしなあ」って思って、
それで一応ここは「しゃこちゃん*」の故郷だし、縄文も正直そんなの興味なかったけど、面白そうかなって思って。
*しゃこちゃん…つがる市亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶の愛称。
しゃこちゃんとの出会い
Q.しゃこちゃんって最初はそんな感じだったんですか!?
【一戸】そうそう。そんなもんよ。で、「しゃこちゃん」を作った時もそうなんだけど、とにかくこっちも食えるかどうか必死だから、はっきり言って何でもやるってなるわけよ。そのときにちょうどね、今は無くなったけど旧木造町立病院っていうのがあって、あれが落成したときの記念でうちの「しゃこちゃん」を使いたいって言われて。これは大きい仕事だと思って「やるやるやる!!」って言って。それで作ったの。でもね、そん時も「俺土偶屋じゃねえしよ」て思ってた。
【宮田】その時が初めての「しゃこちゃん」だったんですね。
【一戸】そうだね。まあそれに前後してここらへんが津軽国定公園に指定されて、「ここは百姓の町だけど津軽国定公園にも指定されたし、遮光器土偶の故郷でもあるから、ある程度量産できて安い値段で観光の土産として売り出せないか」って話も内々にあったのね。
【上東】いろいろ重なったわけですね。
【一戸】そうだね。だから今こんな感じになったでしょ。だって県内でも土偶作ってる人結構いるけど、こんなに取材来てもらってさ、テレビとかも来てくれたりするなんてないもん。すごいラッキーだよね。
【瑆子(セイコ、一戸さんの奥様)】この人20歳でフラフラしてた時、お母さんがあまりに心配になって占い師さんのところに連れて行ったんだって。そしたらさ、「この人、人形作る人になるよ」って言われたんだって。その時に「そんなバカな」って笑いとばして帰ったんだって。でも、今考えるとまんまその通りになってるんだよね。
【一戸】俺もね、その時は「冗談じゃねえよ、俺は焼物で食べていくんだよ。人形ってなんなのさ」って言ってすごい小ばかにしてたんだけど、それがさ、今考えるとこれ(しゃこちゃん)がね、代表みたいになってる。
だって今テレビ局の取材が来てもさ、陶芸家としては来てないから。土偶職人として来てるから(笑)。「しゃこちゃん」を作ってくれる人で、亀ヶ岡焼もあるのねっていう感じ。日本中に土偶作ってる人も結構いるんだけど、やっぱり遮光器土偶の地元でやってるもんだから、飛びつきやすいみたい。そういうラッキーもある。そういう意味ではすごいなって思う。
苦労の末に今がある
Q.一番苦労したなっていう経験はありますか?
【瑆子】あるのよ。
20年ぐらい前、バブル弾けて売れなくなった時代があるの。その時に毎日お客さん来ないし、お金も入ってこないし、この人すごく悩んでたのね。悩んでたの分かってたんだけど、「毎日ご飯食べてるだけでいいじゃん」って思いながら、私3日間ぐらい東京に行ってて留守にしてたのね。
そしたら突然宿にこの人から電話が掛かってきて、なんか寂しそうな声で、何て言ったかわかんないけど、それがね、すごいキュッときたわけ。で、すぐ帰ってきたの。そしたらさ、あまりにもつらくて死のうとしたんだって。
【一戸】やっぱりね。一番の理由は食えないってこと。しかもある程度この仕事やって、今更保険の営業やるとかってわけにはいかないじゃない。
【瑆子】それで(一戸が)ちょっと鬱になって一か月ぐらい立ち直れなくてさ、毎日長イスに寝転がってたの。
そして「私をなんだと思ってるわけ?」って聞いたらさ、歳も私の方が上だから「おかあちゃんだと思ってる」って言ったわけ。だから「あんたみたいな子を産んだ覚えない、病院に行って」って言って、青森市の病院に連れて行った。そこで先生が説教みたいなのをしたの。それ聞いたときに(一戸は)「俺なんでこんな若いやつに説教されなくちゃいけないんだ」と思ってハッと気がついて立ち直ったの。
【一戸】あのね、男って経験とかってある程度分かるの。俺から見るとその人はまだガキなの。こいつよりも俺の方が経験値からなにまでレベルが違う。「俺、なんでこんなクソガキにさ、人生を語られにゃいかんのだ」と思った。
俺こんなレベルに諭される生き方した覚えない。逆に俺の方が「人生とはな」って言える自信ある。そん時に「あっ、こうしてられない」と思って、それで逆に治してくれた。だから逆に良い先生だったのかも。
【瑆子】(一戸は)意外とチキンハートなの。そういうの見てるからなんだかんだ言ったことない。自分の人生だから好きなように、100%自分の思うように生きればいいし。
Q.つがる市に戻ってきて、改めて良い所はどこですか?
【一戸】俺からしたら何にも感じない。さっきの話でいえば亀ヶ岡焼って名付けられたラッキーはあるけど、だけどこの土地とかにどうのこうのとかいう良さみたいなのは正直何もない。
昔ある人が言ってたんだけど、「故郷を愛するがゆえに憎む」。まあ適切かどうかは知らんけど、故郷だから気になるわけでしょ?だから常に「批判の目」を持ちながら、決して良い所だろうとか言いたくもないし、現実に感じてる。
【上東】故郷ってそういうものなのかもしれませんね。
【一戸】やっぱり東京の(夜の)12時過ぎにさ、駅の脇で毎日村祭りやってるような感じで騒いでいるのを見ると、とんでもない魅力を感じる。すごいなって思う。
【瑆子】エネルギーが違うよね。
【一戸】そう。でもね、それがすごいなって思うのが3日から4日なの。それ過ぎると東京にいるのがつらくなる。なんでか知らんけど、早くこっちに帰りたくなる。でも、認めたくないの。
あとね、物を作る、「創作する」っていうときにはここ(木造)は何にもない。だから逆さにしても何にも出てこないの。
東京に行くときはね、新幹線乗るのもダメなの、飛行機を使う。青森から飛行機でサーと東京行って、そのまま美術館行って、そして(頭の中に)詰め込むだけ詰め込んで、帰りも飛行機で帰ってくる。
【宮田】速さが大事ってことですか?
【一戸】そうそう。新幹線とかで途中で揺られてると、その都度(詰め込んだものが)出てくる。
それでどっちかっていうと、うちらもね珍しい商売になっちゃうので、吸い取られる方なのね、求めたらくるんだけど。だから俺ら自体がキャパシティーの中に入れこまないと、もう吸い取られる一方で何にもなくなってくる。だから逆さに吊っても本当に発想が出てこないのよ。
それを克服するためにはさ、やっぱり(東京に)行かないと。健太くん(大阪府出身)もそうだよ。大阪のノリとか絶対必要。こっちにどっぷり浸かると、気づいたら「昔吉本にいてたんやー」で終わる。つがるの人やしこれでええかなで終わってしまう。
だから俺の場合は常に「反逆心」をもつこと。絶対良いと思わないようにしてる。そして枯れ始めたら飛行機で東京に行く。とにかく3日から4日思いっきり見まくって、そしてこぼれないように帰ってくる。
【宮田】作品づくりで常にアウトプットで出しちゃうからその分他の所で、入れてくる作業が必要なんですね。
【一戸】うん。やっぱりね限界あるんだよね。
最近はインターネットがあるから便利だね。一応プロだから大体わかるんだよね。そうするとね「わお!!」だね。そんな大した経歴ないのに「これどうしてんだろう」ってひっくり返るね。特に今の若い連中はひっくり返って「負けましたー」ってなる(笑)。
タレントさんとかもそうだけど次から次へと出てくる。あれと似てる。
【瑆子】この辺では出会えないものがあるよね。
【一戸】やっぱり東京は懐が深い。
それに対してさ比較論法で「でもね、ここにはね」っていう人いるけど、そんなのいいんだわ、ダメなのよ俺らから言わすと。そんなの比較するのがおかしい。だからダメ・すごいって素直に認める。それが大事だと思う。
関連リンク
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